rain 前編 (ROSE IN THE SKY・EMIRIさん)
身体中に、胸の奥の奥にまで沁み渡るほどに。
絶え間なく水音を感じていた、そんな一日だった。
* * *
「…終始あんな態度で、まさか拍手や花束をもらうことになるなんてな」
ヒール兄弟としての最後の夜を迎えたことにどこか現実感がわかないままで、アスファルトを強く叩く雨音を耳の奥で引きずりながら、いつものように熱いシャワーを頭から浴びていた。
B・Jの最後の撮りは、荒廃した街を細部まで再現したセットの中、人口雨を降らせた状態での格闘シーンだった。
カットの声とカチンコの甲高い金属音が耳に届いた瞬間沸きあがった拍手。
つま先から背の中央を一気に這い上がる熱い感覚に思わず涙腺が揺さぶられたのは、セツカにすら悟らせたくない‘カイン’だけの秘密だ。
スタッフから手渡された大きな真紅の薔薇の花束。
それを抱えて、ほんの少しだけ素の表情をのぞかせたあの娘。
瞬時に向けられた数多の色のついた視線には、思わず俺も素の状態で眉を寄せてしまったけれど……。
「最後、か――」
立ち込める湯気の中に、そっと小さく溜息交じりに零す。
内に巣食う深い闇にひたすらに翻弄され、余裕一つない生活だった。
時に敦賀蓮に戻り、カイン・ヒールとして過ごし、その上にB・Jを被せて演じる。
やがて自分自身がどこに居るのかさえ見失いかけた時、ぐっと強く腕をとって底から救い上げてくれたのは、ずっとそばにいてくれたあの娘だった。
傷つけてしまったかもしれない。
ずいぶん辛い思いもさせただろう。
それでも必死に俺を支えて時に叱咤してくれた、かけがえのない存在――。
「……最後、なんだ――」
明日からの一切が、まるで極彩色からセピアに翳んでしぼんでしまうかのような物寂しさを身体中に感じて。
シャワーの蛇口を思い切りひねり、感傷的になる心と身体中に沁みついた重く冷たい雨の名残を強く洗い流した。
「……ん?」
漆黒の髪をした自身のありのままを鏡に映して、真っ白なバスタオルでいさささか乱暴に水気を拭き取っていると、耳にふとくぐもった声が響く。
「……部屋で電話なんて珍しいな」
‘電話’――キーワード一つで条件反射のように現れる黒の感情。
ぎゅっと奥歯を噛んで這い上がる激情を堪えるも、漏れ聞こえる音から脳裏に思い描いた人物ではないことはすぐに判明した。
『……はい、大丈夫です。予定通りに撮影も終わりましたし、はい、今はお風呂で……』
「社長、かな」
どれだけ狭量なんだと己に失笑しながら、そういえば入浴前に俺の方にも社長からの電話があったな、などと思い起こす。
「……また、変な依頼とかしてないといいんだけど」
悪いとは思いながらも、意識は自然漏れ聞こえる音の方へ傾いていて。
バスタオルをバサリと肩にかけたままドア寸前のところまでそっと寄り、息をひそめた。
『いえ……この役を与えてくださって、……はい。感謝しています』
扉一つ挟んだ向こう側で、受話口を耳に当てながら深々と何度も最敬礼しているだろう姿を想像して、思わず笑みが零れる。
こんなに傍にいて、相手の行動が手に取るようにわかるのに届かない。
けれど、そんなもどかしさも今日で終わりなんだ――。
『………え?なんでも一つ、ですか?』
「きたか……」
先刻の電話口で。
俺の方には‘無事理性の紐を切らなかった事の褒美’だとかで、なんでも一つだけ願いを叶えてやるなどと胡散臭さ全開で投げかけてきたわけだが。
『えぇっ?!いえいえ、そんなそんな……っ』
特にありません、なんて軽々しく口車に乗るものかと素っ気なさ全開で先程返答したわけだが、派手好きな彼にしたらきっと消化不良だっただろう。
その不満を全力で彼女にぶつけてやいないかと、一抹の不安が過る。
「…………とはいえ、兄妹で過ごす間に聞ける話ではない、か」
風呂から上がった俺の気配を感じたのか、ぼそぼそと尻すぼみになる声。
このボリュームではどんなに耳をそばだてても会話の細部まで聞き取ることは難しい。
「……まぁ、そうそう変な事にはならないだろう」
二人だけで過ごすことの許される、かけがえのない最後の時。
それを妙な杞憂で、一秒だって無駄にはしたくはない。
髪を乾かしてバスローブを羽織り、鏡の中の自分を真っ直ぐに見つめる。
大きく深呼吸して、少しだけ揺らいだ心を立て直して。
彼女の元へと繋がるドアを、ゆっくりと開いた。
* * *
「――…セツカさん」
「……はい……お兄様……」
まるでデジャヴを感じるようなセリフを、溜息交じりに吐き出す。
「……兄さんは今、とても情けない思いをしているよ」
眼前に広がる情景。
今この状況でなければ、彼女の琴線をことごとく震わせる魅力的なシチュエーションのはずだ。
「こんな事になって」
「…………」
見渡す限り、ピンク、ピンク、赤、赤、赤。
部屋の中央に配置されているのは、ピンク地に白のふりふりのレースで縁取られた天蓋カーテンと、シルクを基調とした寝具――最上さん風に言うならば‘お姫様のベッド’だ。
決して広いとは言い難い、けれどきっと二人で生活するにはちょうどいい大きさの居室。
その入り口に、俺達は茫然と身一つで佇んでいた。
「……申し訳ございません……もしや私がまたしても社長さんの口車に軽々しく乗ったことが原因なんじゃないかと……」
「…いや…まぁ……君のせいばかりとは言わないから」
(……本当にあの人は……)
兄妹としての最後の時を、いつもよりも和やかに過ごしていた昨夜。
朝方まで他愛ない会話を交わして、ほんの少しだけ仮眠をとった後、突如けたたましく響いたチャイム音。
そっとドアを開けたセツカが目の前の扉の向こうへ一瞬で消えて、追いかけた俺も気づいたら見知った車の中で手足を拘束されている状態だった。
ややして辿り着いた先。
そこは濃い霧が立ち込める深い深い森の中だった。
降り注ぐ雨の中、大きな黒のコウモリ傘と共にポンと森の中に投げ出され、次いで隣のミス・ウッズの車からは最上さんがセツカのままで――衣装が露出過多気味にマイナーチェンジされていたが――ぽろりと車外に投げ出された。
『Have a good holiday!』
車中からは早朝に似つかわしくないやたらテンションの高い声が響き、スタコラと逃げるように2台の車は急発進して、あっという間に霧の中に消えていったのだ。
狐につままれたかのような突然の状況下で――悪い狐はどうやら2匹で共謀したらしい――とりあえずはと舗装されているとは言い難い足場の悪い道を、大きな傘一つで豪雨から身をかばい合いながら無言のまま進んでいく。
15分程度経った頃だろうか。
濃い霧と緑の奥に現れたのは、赤い屋根と蔦の這った茶の外壁だった。
携帯電話はおろか、財布すら没収されていた状態。
身一つでそこに入るほか術はなく、出来るだけ怪しまれないようにと普段よりも柔らかな姿勢でドアを叩く。
と、どうやらそこは小さなホテルだったらしい。
フロントにいたスタッフは、黒づくめでずぶ濡れの明らかに不審な男女に一瞬びくりと身体を震わせるも、先に話がいっていたのだろう、やたらスムーズにこの部屋を案内してくれた――。
(……完全に玩具(おもちゃ)にされてる気がするんだけど)
愛が大好物な我がボスへ恨み言を心中で漏らしながら、部屋中をぐるりと見渡して嘆息する。
英国調、というのだろうか。
ベッド脇のリビングスペースには、控え目な大きさではあるものの存在感を醸すペルシア絨毯と、その上に佇むこげ茶色のコンソールテーブル。
脇には背もたれに彫刻が施されたネコ脚のイス二つと、小振りのスツールが並ぶ。
卓上で煌めきを放つ二つのワイングラス、その中に飾られた赤と桃色の薔薇の花弁。
壁面やチェストの上まで、余すことなく飾られた薔薇、薔薇、薔薇――。
「ええっと、その、フロントからどうにか社長さんに連絡を……」
「……無駄、だと思うけど……?」
「…………」
困惑にゆれる長い睫毛、薄く色づいたまあるい頬。
極短スカートの端からは、すらりとした二本の脚が惜しげもなく晒されていて。
大胆にV字カットされた胸元からは、仄かな膨らみが魅惑的にのぞく――。
(…………~~~~!)
神の悪戯か、悪魔の気まぐれか。
――いずれにせよ、俺にとったら降りかかる災い以外の何ものでもない。
まだ、生活に慣れたあの部屋ならいい。
……いや、実際かなり限界ギリギリではあったけれど。
芝居に集中できるよう必要最低限の生活に留めていたし、カインのスイッチだって自然に入るまでに役者魂を高めてもいた。
(……一体、何がどうこじれたらこんな事態になるんだ……)
少しだけ開放されていた窓から朝の眩い陽光が一筋射しこみ、瑞々しい緑の匂いが部屋を駆け抜ける。
雨は、いつの間にあがったんだろう。
まるで、この生活の幕引きを告げるように一気に晴れ渡った空。
現実感のない、閉ざされた世界。
ここは、一体どこで。
目に前にいるのは愛しい妹か、それとも――。
「と、とにかく!私やっぱりホテルの方に事情をお話しし」
「…………昨日の夜。俺にもかかってきたけど、最上さんにも社長から電話いったんだよね?」
「…はい……?」
グラグラと心を揺らす黒の固まりを、吐息と共に吐き出す。
「……俺には、ヒール兄弟としての活動はこれで終わりだっていう話だけだったけど」
「そう、なんですか…?」
ぽたぽたと水がしたたる前髪をぐしゃりと掻き上げて。
目を向けた先には、小さな木目調のドレッサーがあった。
縁を暖色の花で艶(あで)やかに盛られた鏡に映るのは、この部屋とは混じり合う事のできない、黒衣の男女の姿。
――否、異質なのは俺だけだろう。
欲に濡れてテラテラと光る漆黒の瞳、その奥に宿る仄黒い焔――。
「……綺麗だね」
強い灯りに吸い寄せられる小さな虫けらのように、明るい窓際へとゆっくりと歩をすすめる。
風に靡く、白の細かなレースカーテン。
揺れる柔らかな木漏れ日。
内面を如実に表したかのような黒に覆われた俺と、なんて対照的で綺麗なんだろう。
「敦賀、さん……?」
鳥の囀りと葉擦れの音。
太陽の爽やかな香り。
感じる陽(よう)のすべてが‘お前はこの場に似つかわしくない’と、俺だけを排除しようとしているようでやけに鼻につく。
「あ、の……?」
「……何を言った?」
「え」
得体のしれない密室に、二人きりだというのに。
俺の呼びかけに即座に駆け寄り、首を傾げながら無防備に上目使いで覗き込んでくるその素振りに、心がチリチリとささくれ立っていく。
(……おおかた、社長の仕業だとしても)
内側からじりじりと火照りだす身体。
(なんでこの娘はこんなにも無防備に俺とここに居るんだ――?)
意識は、次第に朦朧として。
「……君さ、一体社長に何をお願いしたの?」
「っ!」
首の後ろでじわりと滲んでいた汗が、背骨の脇をスゥと静かに滑り落ちる。
拳一つ分開いていた窓の枠を乱暴に押し込んで、外界を遮断して。
震えを堪えるように胸の前で交差されていた細い腕を片方だけ強引にとって、指先にぐっと力をこめた。
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ポイントはマッパで盗み聞きをする敦賀氏です(´・ω・)
後半へ続きまーす。