その扉の向こうへ… 2 (スウィート・ムーン・山崎由布子さん)
二人は時間を考えてホテル側に全てをリザーブしていた。予定がずれ込むことも考えていたが、少し遅くなったぐらいですんだ。専用の駐車スペースに止める事が出来ると車の外に出た。
そこに黒服に蝶ネクタイの男性が蓮とキョーコを待ち立っていた。蓮達を人目に付かないまま案内する為だ。
ホテルでの食事は周りの目を気にして個室をリザーブしていた。
結婚までのスケジュールまで発表しているのだから、忙しい二人がデートをしている姿があっても不思議ではない。だがゆっくりした二人の時間を過ごしたければ、ある程度は極秘に動いた方が二人だけの時間もキープできるというものだ。
個室とは言っても部屋は大きめでゆったりとして、円卓には恋人達が話しやすい隣り合わせの席がセッティングされていた。もしも周りに声が漏れても、その言葉までは聞こえないようにと言う配慮もある。
そして部屋の周りは壁にばかり囲まれては味気ない。一方が海に面した作りになっている辺りは、グレードの高いホテルの証拠だと蓮は思った。個室と言っても秘密で守るだけでは寂しいところ。そこを海に面した、周りからは見えにくい方向にすることでその部分をカバーしていた。
お客様のニーズにより応えることが出来て、そのホテルのグレードもアップするところだ。
「この時間だと海は流石に真っ暗で見えないけれど、外が見えるだけで雰囲気が違うのね。壁ばかりだと息が詰まるから…」
キョーコが漏らした言葉に蓮は頷いて同意した。
折角の海近くの高台に建てられているなら、その自然を感じられる設計になっていなければ勿体ない。暗闇で見ることが出来なくても、窓を開ければ波の音が、風が吹けば木々の音がするだけでも、このホテルがこの場所に建っている意味があると言うものだ。
「普段、俺達はロケで外に出ない限りは壁に囲まれた仕事、セットの中の作りものの世界が多いからね。自然を感じて安らげる時間は大切だね。自然だから感じさせるその大きさは、人には作り出せない素晴らしく偉大なものだ」
「そうね。自然だけが持っている優しさもあるし」
「でも自然には脅威もある。人間だけの驕りは自然から学ばなければ、時には忘れてしまうほどの自然の力も」
「どれも自然の持っているもの。優しくも、厳しくもあるけど、人間なんてちっぽけだけど時には素晴らしい力も出せるわね」
「キョーコのくれる優しさも素敵だよ」
さりげなくキョーコへの賛辞に変えて誉める蓮に、キョーコはまたキザなセリフが始まったとばかりに喜ぶよりも困った顔をした。
「どうしたの? 変なことを言った覚えはないけど?」
「そのさらっと流して言うキザなセリフ、蓮の場合はそれが普通なんでしょうけど、やっぱり聞いてると私には過剰な誉め言葉に聞こえるわ」
蓮は言われても気付かない事だが、やはり日本で育っていないことに加え、父親であるクーの影響もかなり大きいのだろう。誉めるべき美点は素直に誉め、それを伸ばして愛おしさをアピールするのが、クー&ジュリエナ夫妻のいつまでも新婚のような熱々ぶりの夫婦の秘訣なのだろう。
「キョーコは自分の良いところはもっと素直に受け取ることだ。前ほどは自分を卑下しなくなったけど、もう少し自分の魅力を素直に受け止めて。君の魅力は華としてはまだ全開しているほどじゃない。それでも開きかけた蕾から匂い立つ香りや、役によって変わる華の魅力は、君をもっともっと美しく咲き誇らせていく。それは1年、2年と年齢を重ねることで新しい魅力だって生まれるだろうからね」
蓮はキョーコ以外の女性は目に入らないとばかりにキョーコを誉めまくる。
初めは恥ずかしながらも嬉しかったことが、蓮の性格故の当たり前の言葉と知って、蓮が本気で言っていることも話半分に受け止めるようにした。全てを本気で受け止めるには、キョーコは謙虚で大和撫子らしく日本的な慎ましさがキョーコらしさなのだから。
そして二人がテーブルに付くと、ホテルの支配人と料理長が挨拶に現れた。
今日は打ち合わせとはいえ宿泊もしていく。それにビッグカップルが挙式後の大披露宴をするのだ。支配人も料理長も、式当日ではゆっくり挨拶も出来ないだろうと、揃って挨拶にきたのだ。
「ようこそいらっしゃいました、敦賀様。京子様。私、当ホテルの支配人をしております渡と申します。この度はおめでとうございます。心からのお祝いを申し上げます」
ホテルの支配人は幸せそうに揃った二人に挨拶をして深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。今夜もお世話になります。披露宴もよろしくお願いします」
蓮がにこやかに答えると、キョーコも嬉しそうに微笑んで言った。
「お祝いのお言葉、ありがとうございます。お式の時や披露宴での着替えも、お手数おかけすることになると思いますが、よろしくお願いします」
蓮もキョーコも若いとは言え売れっ子に違いない。だが支配人への挨拶は奢ることなく座っていた席を立って、深く頭を下げて挨拶をしてきた。
支配人と料理長は僅かに視線を見合わせて少し驚いた顔をしたのは一瞬で、にこやかに笑った。
有名人だと言っても偉ぶることのない態度に、二人は喜ばしいお客様だと喜んだ。そんなお客様ならトラブルを呼び込むこともない。
「私めはこのレストランの料理長、陳と申します。お二人のご婚約並びにご結婚、おめでとうございます。そのおめでたき席に、料理を作らせて頂けることを光栄に思います。披露宴前のパーティー、披露宴の料理まで務めさせて頂きます。京子様は料理の腕も確かと伺っております。余り厳しい舌でご賞味下さいません様に、よろしくお願い致します」
料理長は少しジョークを交えた言葉をキョーコに投げかけた。
「そんなこと、私の料理はそれ程のものではありません。この素敵なホテルで腕を振るわれるシェフの腕を疑うなんて、吟味するほどの厳しい舌も持ち合わせていません」
「まだ口にされていないのにどうしてそう思われますか?」
少し意地悪に聞き返すと、キョーコは笑みを浮かべながら言った。
「一つは社長が推薦されたホテルということです。私が敵う訳のない目を持ってみえます。その社長が推薦して下さったホテルなら、そしてそのホテルの顔の一つであるシェフの作られる料理なら、安心だと思ったのです」
キョーコは飾ることなく社長の目を信じたことを言った。
「それに、夜で闇が周りを包んでいたのに、このホテルには美しさと暖かさを感じたんです。真っ白なホテルに暖かみのある照明が当てられて、幻想的にも感じて、宿泊に来るお客様にも優しいホテルだと思いました。そのお料理も暖かいはずだと…」
再び支配人と料理長が視線を合わせた。
このホテルを披露宴会場に推薦したのは社長のローリィだが、実は他にも2点ほど推薦していた。そしてその中でも顧客を大切に扱い、周りの景色が良いところや、芸能人故のプライバシーへの配慮もしっかりしているところも最後の決め手となった。
蓮もキョーコもこのホテルには今日が初めて訪れたはずなのに、このホテルの売りとする良さを全て言い当てているのには驚いたのだ。パンフレットなどには書き込まれた言葉もあるが、社長の推薦を中心に選んだと聞いているだけでなく、この部屋に辿り着くまでの対応など、ホテルの良さを感じ取るキョーコは年齢よりもやはり見る目のある女性だと二人は感じ取った。
「あと、今夜はディナーのフルコース料理のみの時間ですのに、メニューを指定してすみません」
キョーコが料理長に申し訳なさそうに声をかけた。
仕事柄も食事時間が遅くなるのは普通と言っていいが、健康や今のキョーコにはドレスの為にも体型維持の管理が迫られている。細くなるなら少しの余裕ですむことも、太ってしまってはピチピチのドレスのファスナーが壊れかねないのは頂けないジョークだ。
蓮はそんなことはあり得ないと否定するだろうが、花嫁の夢や不安は山のようにあるのだ。
「いえいえとんでもございません。お仕事やこれからのスケジュールを考えますと、遅くの食事はカロリーや栄養面での調整も必要です。お応えできる範囲でご要望を頂ければお答えさせて頂きますので、ご自由にご注文下さい。その様なこと、お気にされません様に。お客様の舌を唸らせることが料理人の喜びです。料理上手の京子様に、楽しんで召し上がって頂ければと思います」
料理長は素直ではきはきとしたキョーコがいたく気に入ったのか、キョーコの要望には出来る限り答えたいと思った。
「あと…お願いがあるのですが、結婚式の後のガーデンパーティーで出される品物の中に、私が考えたレシピを1品か2品混ぜて頂けないでしょうか?」
「京子様のレシピで?」
料理長は京子が番組のコーナーを持つ腕があることは知っていたが、忙しい合間にその様なことを考えていたのかと驚いた。
「以前に友人とのパーティーで作ったものですので、思い出のある料理を少し取り混ぜて頂きたいのです」
「それは、レシピを頂ければ可能ではありますが…」
花嫁がウェディングケーキを作ったり、引き出物に一品、クッキーを作ったりというのは時折ある。
「もしかして、それってグレイトフルパーティーの?」
蓮が口を挟んで訊ねた。
「そう。あの時に出席して下さった方も多いから、思い出していただくのも良いかと思って。それに、東京に来てから初めて…沢山の方々に誕生日をお祝いして貰えた時の記念の思い出でもあるし」
蓮はキョーコがマリアの為に考えたパーティーが、日付が変わると同時に蓮からキョーコの為にオプション付きのバラをプレゼントし、キョーコのバースデーパーティーへと変わった。キョーコの手元には蓮が隠し入れたクインローザの石が残り、恭しく飾り場所を設けると、その後のドラマのアイテムとして美しくカッコいい「ナツ」を飾り付けた。そんな思い出のあるキョーコには…忘れられない日を思い出した。
「素敵なパーティーだったね。確かあの時は、何品あるかわからない料理の1皿目だけ君が作って、その後はプロを目指す卵の人たちが引き継いで作ったんだよね?」
蓮がキョーコから聞いたことを思い出して、料理長にもレシピから作れることを説明した。ただそれがプロ顔負けの料理だとは口にしなかったが。
「そうでございますか。ではレシピと、出来ればその時のお写真などを頂ければ、私共でもパーティーの演出としても協力をさせて頂きます」
そう料理長は言ったものの、プロではない京子とプロの卵の作った料理ならと、少しだけ軽くみていた。
レシピは直ぐに送られてきたが、見た目はイラストの形で添えられ、そのイラストだけでシェフ一同は素人のものではないと驚いた。
そして後日、時間を作ってキョーコが実物を社長を通じて届けさせると、見た目だけでなく繊細な味に驚きを大きくして京子を見る目がプロだと変わった。実際に料理で食べていないだけの、料理のプロの目と舌を持つ本物だと一目おくようになったのは、後日の話。
「では、お忙しい中の少ないお時間でしょうが、お二人の時間を食事と共に楽しんで頂ければと思います」
料理長も支配人も、恋人達の時間を邪魔する野暮なことは控えて、簡単な挨拶だけに止めることにして退室した。
そして二人きりの会話に静かに運び込まれてきた料理は、メインの魚料理にスープとパンにサラダと控えめなものだった。
「これなら俺でも食べられる量だね」
「私も体型維持には程々でよかったからお願いしたの」
「キョーコは太ってないから大丈夫だよ」
「それ程じゃないけど、ちょっと…」
キョーコが何かを気にして口ごもった。
「俺は気付いてないけど、何処か変わった?」
肌を触れ合うようになって、キョーコの体型もわかっている蓮は、そんな筈はないけど…とキョーコを見つめた。
その視線が座っているキョーコの頭から足先までを往復すると、キョーコは恥ずかしそうにしていた視線で蓮を睨みつけた。
「蓮には分からなくてもいいわ」
そう言うと、キョーコは蓮から視線を外して恥ずかしそうに頬を染めた。
蓮にはその意味は分からなかったが、キョーコが恥ずかしそうにしてはいても、本気で怒っている訳ではないと分かればそれでよかった。
「神父様をお待たせできる時間は少なくしたいわ。でも蓮にはしっかり食べてもらいたいし…」
キョーコは話を食事に振った。
「分かったよ。キョーコ」
「急いでもよく噛んでね。栄養になってもらう為には、胃に負担をかけないことも必要よ」
まるで子供に言い聞かせるようなキョーコの言葉に、蓮はクスクスと笑いながら食事を進めた。
その一言一言が、キョーコの愛情だと分かっているからだ。
「よく噛むことで長寿になるとも言われているそうよ」
「そうなんだ。でもやっぱりキョーコの方がしっかり食べなきゃいけないね。疲れや緊張で花嫁が倒れる話も聞いたことあるよ」
「私がそれほどヤワな身体だと思うの?」
真面目な顔でキョーコが訊いた。
「俺が知っているキョーコは気力で乗り切るほどに強いけど、今回は主役だよ? 君には素敵な笑顔で素敵なキョーコを沢山見せて欲しいからね。無理をしない為にも食事は大切なんだろう?」
「勿論よ。だから蓮も、ゆっくり食べられる時ほどしっかり食べて」
二人への給仕に現れるシェフの卵達は、会話の内容こそべたべたと甘えていないが、その言っていることは互いの身体を大切にして欲しいと主張する恋人達の甘い言葉に、「ごちそうさまでした」と顔に張り付けて部屋を後にするだけだった。
婚約会見から結婚式の時間を捻り出す間、二人での時間は予想以上に少なかった。取材や仕事では一緒になれても、それは周りに人がいる状態であり、二人きりの時間は婚約を発表する前の方がマネージャーの世話焼きの兄、社が作ってくれた。
それに仕事で一緒とはいえども、それぞれのファンの目が、特に敦賀蓮に憧れていた女性芸能人の目がキョーコには痛かった。あからさまに「こんな子を?」という視線も多く、分かっていたこととはいっても女性の嫉妬の視線は怖いものだ。時には隠れた嫌がらせもあるが、蓮が気付けばその視線に俯いて、視線を反らせて止めるだけのこと。本当に止めたことにはならない。
蓮と京子の二人共と仲がいい人達は、その殆どが二人の仲の良さを納得して祝福の言葉をくれた。二人と仕事をする機会のある人ならば、蓮がキョーコを気遣う様子も知っている。そしてキョーコが蓮を先輩と慕う真摯な姿も知っている。互いを思う気持ちが何処からか溢れていることは、ドラマなどで数ヶ月共演した者達には形は違っても互いを大切に思っている姿として記憶に残っていた。
京子のファンの目も蓮には嫉妬をたぎらせ向けられてはいるが、京子の幸せそうな笑みを見てしまえば、芸能界に確固たる場所を持つ蓮に嫌がらせも出来やしない。本当のファンなら好きな人の幸せを望むものだ。例え心の痛みを伴っても、涙を隠して祝福するのが本当にその人を愛している証だ。
それに二人はLME芸能プロダクションという大手プロダクションの看板俳優。嫌がらせにしても下手に傷や怪我を負わせるようなことになれば大事になってしまう。それは同じ芸能界に生きていくなら自分の首を絞めることになるからと、小さな嫌がらせはあってもキョーコは呆れて胸に仕舞うことが多かった。勿論それは蓮にも伝わっていたが、余りにしつこい相手にだけは釘を差して、「京子を傷つけることになるなら、出る方法はありますから」と最後通帳を突きつけることで終わらせることも出来た。
蓮を慕う相手はドラマをメインとした仕事での共演で本気になることが多かった。それ以外でもエスコートされる笑顔で勘違いを起こす女性は山のようにいる。だがその笑顔は殆どが営業用のもの。それが分からずに入れ込んでしまうのは、蓮が根っからの演技者だということを忘れてその笑顔とソフトなエスコートを自分の為だと思わせてしまう…蓮の罪作りなところでもある。
キョーコも京子として、まだ若手であり元から腰の低い謙虚さと心配りは、同じ共演者やスタッフにも気遣いの出来る新人として、表立ってではなくとも人気はあった。
気難しいと有名な大物もキョーコの裏表のない優しい接し方に、笑顔で答える姿は周りのスタッフ達も驚きを隠せなかった。それからは京子がその大物俳優の世話にあたり、ドラマはスムーズな収録が出来たと監督も喜んでいた。着実に身近なところからもファンが多くなる中、ドラマとバラエティーのギャップも女性にもファンが増えていった。
その中に料理上手なところも女性を引きつけた。これが作れると売り込んだ訳でもなく、コーナーの一つに参加することで出演者の賛辞の声が挙がり、他のバラエティーでも引っ張りだこの末にバラエティーのミニ料理コーナーの担当をもらうことになった。時間の枠は短いものの、先に用意しておけば間に合うものなど、京子の料理は手軽で美味しいと評判を呼んだ。
評判や人気の良さはそれぞれに違うところもあるが、二人が才能溢れる役者であるところは、共演した者や監督には一人のファンになる程の光る才能の持ち主だと伝わっていた。
それが分からない者は、嫉妬の曇った目で本当の二人を見極められない才能のない芸能人達だった。