DAYBREAK 3 sideキョーコ (SWEET!・美花さん / 降っても晴れてもスキ日和・ひかりさん)
『お前は俺のモノだ。俺だけのモノだ』
敦賀さんの長く整った指先が、私の頬をゆっくりとなぞるように滑っていく。
それはまるで、私がそこにいることを確かめるような行為。
そしてその言葉は、まるで挑発しているような響きを持つものだった。
同時に、大きな掌が肌を這う。
辿るように、なぞるように。
皮膚の粟立つ感覚が、その度ごとに肌の上を走り抜けていく。
『兄さんたら…そんなの当たり前じゃない。アタシは、ずっと兄さんのモノよ』
…そう答えながら…
自分の心臓が、早鐘のように脈打っていることが分かる。
今の彼は、バスローブを肌蹴させたままの私の首筋へと顔を埋めてきていた。
首筋を軽く吸い上げる柔らかな唇の感触、頬や肌に触れてくる乱れた黒髪。
鼻を擽る湯上りの香りと、その奥にある、彼自身の肌の香り。
そして太く筋肉質な腕は、しなる背中ごときつく強く、私の身体を抱き竦めていた。
2人分の体重に、シングル用のベッドがきしむ音がした。
決して広くはない部屋に、その音はやけに大きく響き渡る。
やめて、触れないで。
彼の行為に、私の心が悲鳴を上げる。
…何故…?
どうしてあなたは、私にこんなことをするの…?
疑問ばかりが、混乱する頭を駆け巡っていく。
しかも今の私は、彼の前に下着姿を晒した状態なのだ。
強い羞恥に、頬が勝手に赤らんでしまう。
絡む腕と間近な彼の気配に、鼓動が跳ね上がり、動悸がどんどん早まっていた。
密着する肌が、身体が、自分の中で渦巻く感情を、そのまま彼に伝えてしまいそうだった。
…この行為の中に、敦賀さんの真意はどこにあるの?
こんな触れ合い、もう兄妹の範疇をすっかり超えてしまっていると思う。
まるで、何かを試されているみたいだ。
…どこまで許すのか、どこまでをありとするのか…
もしかして、敦賀さんはその境界線を探っている?
どこまですれば私が逃げ出すのか、確認しているの…?
それは演技者としてなのか、それとも。
混乱した頭でそう考えて、考えれば考えるだけその思い付きが正しいように思えて…
立場的には彼に試されることが当然と分かっていても、私は悔しくなってくる。
出来ることなら私だって、『仕事』も『役目』も投げ出して、襲い来る何かから自分を守りたかった。
このままでは自分の中の何かが壊れてしまいそうだ。
今すぐにでも、この場から逃げ出したい。
演技でここまでするなんて、ありえないことだとちゃんと分かっている。
…けれど、絡んだ腕が私が逃れることを許してくれない。
それに私の中の『セツカ』は、最愛の兄の腕の中にずっといたいと強い声で主張するのだ。
2つの想いが相反して、小さな、けれど激しい嵐が、私の中で荒れ狂う。
…敦賀さん…
あなたは私に何を求めているの?
私は何をすれば、あなたの希望に沿うようになるの…?
『…ん…っ…兄さん…』
苦しい思いを吐き出すように、彼の腕の中で吐息交じりの声を零した。
仄暗い闇の中に私の声は紛れていく。
その声に、応じるみたいに。
『…セツ…』
“カイン”の唇が、“妹”の名を小さく紡ぐ。
…彼は、こんな状況でも“兄”を演じるのだ。
なんら、揺らぐこともないままに。
凄く、悔しい。
強くそう思った私は呼ばれるままに指先を伸ばし、負けずに“妹”の顔で、彼の目元に掛かる長い前髪を撫で付けようとした。
すると…
彼は、そんな私の手に擦り寄るように額を寄せてきた。
指を輪郭に滑らせ頬を辿れば、その手を引き寄せ、私の掌の中に居場所を見つけてしまう。
…そんな仕草に…
苦い気持ちが蟠る中、不意に胸の奥で、柔らかく心を擽られるような感覚が芽生えてくることに気付く。
なにかしら、この感覚は…?
驚いた私は瞳を瞬かせる。
まるで誰にも懐かない野生の肉食動物を、自分だけが1人手懐けたような不思議な気持ち。
誰に対しても牙を剥く凶暴な動物が、自分の傍でだけ、安らかな寝顔を見せて眠っているような。
…もしかしたら…これは、優越感…?
『…ねえ…兄さん?』
心に浮かぶ分からない衝動に突き動かされるままに、私は唇を開く。
その声に、顔を首筋に埋め頬に掌を引き寄せた彼は、眼差しだけで返事を返す。
そんな仕草は本当に動物的で、思わず口元に笑みが浮かんできてしまう。
…沿わせた掌で、彼の輪郭を撫でながら、私は…
『…だったら、兄さんは?私にそんなことを言うけど…兄さんはどうなの。一体、誰のモノ…?』
浮かんだ口元の笑みに、ほんの少し暗い闇を投げ入れる。
胸の奥に、赤々とした焔が立ち上っていた。
焦がれるような想いが、心を苛む。
…ずるい。
やっぱり、あなたはずるいと思う。
あなたはいつも、演技でこんなふうに女の人に触れるの。触れさせるの。
いつもこんな無防備な顔を見せて、その度毎に共演相手の心を奪っているの?
それが共演者キラーの呼び名の由来?
私の知らないところで…
こうして、見知らぬ誰かに全てを許しているの?
それとも…
こんな顔を見せるのは、私にだけ…?
渦巻く感情の中にある、祈りにも似たささやかな願望。
…そんな想いのこもった、本心からの質問を唇に乗せてしまって…
私は、自分自身に苦笑を零す。
何を言ってるの、キョーコ。
これではまるで、“セツカ”に心を侵食されてしまったみたいだ。
何人いるか知れない過去の彼の共演相手にまで、見たこともない女性の影にまで、嫉妬まがいの気持ちを抱くだなんて。
自分のむき出しの感情を乗せた質問に演技で答える彼の反応を見たくなくて、私はそっと目線を伏せる。
『ふふ、こんな質問おかしいわね…兄さんがアタシのモノなのは、当然のことなのに』
…ベッドに波打つシーツを見つめながら、自嘲気味に瞳を細めて…
『これじゃまるで、兄さんのことを信用していないみたいよね』
“セツカ”の顔で笑って見せてから、この演技の舞台から退場するべく、彼の胸を押しやり私はゆっくり身を起こす。
心の中で、何かが大きく警鐘を鳴らしていた。
このままここにいてはダメ、このままでは、自分を自分のまま保てなくなる。
この黒い瞳に、いつか自分の気持ちを見透かされてしまいそうで怖い。
ここにいては…
絶対に隠し切るつもりの意思がどんどん揺らいで、胸の奥にある秘密の感情を、自分から彼に暴露してしまう危険性だってある。
『もう寝て、兄さん。明日寝坊なんかしたら、許さないんだから』
そしてそう言って完全に身を起こすと、身体に絡んでいたバスローブがするりとベッドに落ちた。
彼に背中を向け、ベッドサイドに足を下ろし腰掛ける姿勢になった私は、自分の姿を思い返してそっと頬を染める。
今の私はレースに縁取られた黒のベビードールと、それと対のショーツを纏っただけの姿だ。
感情の起伏の中で、こんな姿になっていることがすっかり頭から吹き飛んでいた。
その事実に慌てた私は、恥じらいを滲ませながらバスローブへと手を伸ばしたのだけれど…
それは叶わなかった。
…伸ばした手ごと、背後から彼に抱き竦められたのだ。
『…あ…っ』
力強い腕が肩にお腹にきつく絡んで、私は小さく喘ぐ。
露になった背中を彼の厚い胸板が覆って、肌と肌が強く密着する。互いの触れる感触に眩暈がしそうだった。
『ッ、兄さ…』
彼を振り仰ごうとして…
『違う…信用していないんじゃない。お前の口から、自分は俺のモノだと、言わせたかっただけだ…』
耳朶に吹き込まれた吐息交じりの低い声。
背筋を駆け上る何かに身体を震わせながら、その声が語る台詞に私は大きく目を見開いた。
これは、どういう意味?
もしかして…私が自嘲を込めて言ったことへの、返答…?
確かに考えてみれば、私の言葉は最初に質問を投げてきた彼への揶揄にもなるけれど…
そんな意図は、少しもなかったのに。
視線を転じれば、背後から首筋に顔を埋めていた彼の黒い瞳が、私を真っ直ぐに見つめてきていた。
その瞳を覗き込んで、私は息を呑む。
暗い室内を照らす間接照明の灯りが映り込むその瞳には、まるで縋るみたいな色が、灯りに紛れて見え隠れしていたのだ。
所有を主張する強い言葉を口にしながら、そこにあるのは子供みたいな哀願だった。
私はそんな色を見つめて混乱してしまう。
自分を抱き竦めている人が誰なのか、分からなくなる。
今、目の前にいるのは『カイン』?それとも、『敦賀さん』…?
私を所有しようとしているのは、一体誰なの…?
長い前髪に隠れて、暗い室内に紛れて、顔を伏せる彼の表情がよく見えない。
その表情を、もっとよく確かめたくて振り返れば…
『俺から、離れるな』
そのまま正面から抱き締められ、ぎゅうっと強く掻き抱かれた。
『…俺にはお前だけだ…』
身体を抱く腕に力が込められる。吐息と共に、零れる言葉。
それは、強い懇願だった。
求められているのは…
今は、私だけだ。
途端に私の胸には、言葉に出来ない愛しさがあふれ出してきた。
このまま放って置けない、そんな気持ちが心の底から浮き上がってくる。
目の前にいる人が誰かなんて、この瞬間、もうどうでもよくなっていた。
これが演技だろうと、そんなことはどうでもいい。
…今腕の中にいるのは、私の最愛の人だ。
認めたくないけど、それでも。
自分に覆い被さる彼の背中にそろそろと手を這わせると、更にきつく抱き締められる。
縋る仕草に、思わず目元に唇に、困った笑みが零れる。
…愛しくて、切なくて、泣きたい気持ちになって…
ああ、ダメだわ。
やっぱりこの人からは、逃げ切れそうにない。
諦めにも似たそんな想いが、胸に浮かび上がってくる。
強いくせに、弱い人。
絶対的な存在として走り続けているのに、時々こうして弱点を晒してくる。
そんなことをするから、もしかしたら私は、あなたの特別なんじゃないかと思ってしまうんじゃない。
あなたはやっぱり、凄くずるいと思う。
何よりも『演技』を大事に思って、何の意図もなくこうして『演技』で人の心を大きく掻き乱す。
それに対峙する私に、心がないとでも思っているのかしら。
そう思うと苦しくて、私はそっと唇を噛む。
…ずるくて、だけど愛しい、私のただ1人の人。
求められているのと同じだけ、私の心も、身体も、この人をこんなにも求めている。
たとえそれがあなたにとっては『演技』なのだとしても…
それでもいい。
こんなにも心を揺さ振るのも、彼に向かう想いを恐れて逃げ出したい気持ちにさせるのも、この人だけなのだから。
『…もう、本当に甘えん坊なんだから…』
そう言って彼の髪に指を差し入れた私は、“セツカ”ではなかった。
発した言葉はかろうじて英語だったけれど…
恋に頑なな“キョーコ”でも、兄の全てを受け入れる奔放な“セツカ”でもない。
目の前にいる愛しい人を、目いっぱい甘やかしてあげたい。
そしてこの人を、私なしではもうこの先、1人では歩けないようにしてしまいたい。
…この強い想いを突き動かすのは…
彼を愛しいと想い、その気持ちによって心を変化させていく、また別の私なのかも知れない。
『ずっと傍にいるわ…ずっと、離れない。ずうっとこうして、甘やかしてあげるわ…』
蜜のように甘く囁いて、愛しい男をふとももで挟むようにして、その上半身に体重を乗せる。
見事な肉体を晒す彼にとって、私1人くらいを抱えることは簡単なことのようだ。
その体勢でも軽々と身を起こした彼は、私に顔を寄せて来て…
その動きにマリア様みたいな笑顔を浮かべた私は、髪に差し入れた手で彼の頭を引き寄せる。
そうして頭を抱き込み、そのてっぺんに髪の上からくちづけた。
指を滑る黒髪は相変わらず艶々でサラサラだ。
絹糸みたいな黒髪を梳きながら、唇を彼の目蓋や額に滑らせる。
この髪も、この美貌も、全て…
私だけのものに、してしまいたい。
ちゅ、ちゅっと音を立ててくちづけを落とすと、腰に腕を巻かれて抱き竦められた。
そうして、露になった胸元に顔を埋められ…
触れる柔らかな唇の感触に、私は小さく身を震わせた。
『…ずっとだ、ずっと…少しでも離れたら、許さない』
『…もう、そうだって、言っているでしょう…?』
声と唇で、指先と掌で、そして、その身体全体で。
彼を抱き締め甘やかしながら、私は思う。
ねえ、敦賀さん。
あなたはそうやって、所有を刻むように唇を寄せながら私に囁くけれど…
…その逆の可能性があることを…
あなたは、考えたことがあるのかしら…?