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Operetta 5 (Tempo2.0・sunny)

「パトラッシュ、もう疲れたよ」


見渡す限りルーベンスの名画が飾られたその部屋で、かの有名なセリフを眼鏡の男はつぶやいた。
自分の方に向かってくる長身の男に不思議そうな顔をされる。

「社さん、なんですか?それは……」
「蓮……お前は本当に日本人か?」

美術館のこの広さ、この作品数。疲労した日本人なら思わず口にしたくなるかもしれない。
……が、もちろん社はその事で言っているのではない。
美術館の空気さえも甘く染まりそうなこの状況、愛らしいパトラッシュの幻を見たっていいじゃないか?現実逃避をしたっていいじゃないか?

「社さん、その気持ち分かります……」
「キョーコちゃん」

そして、蓮よりも少しだけ遅れてきたキョーコは社以上に疲れていた。



今から少し日にちを遡る。
パリ行きの飛行機の中で、社は蓮に「最上さんに告白しました」と笑顔で報告を受けていた。
その笑顔にさぞや色よい返事があったのだろうと思いきや、保留状態で「次にあった時に貰う予定です」という話。
それがなかなか幸せそうな様子だったので、近い将来この恋はついに実るであろう事を確信する。
傍で見守っていた社にとっても、それは当事者同様に幸せな事柄だった。

そして今朝、社の元に一通のメールが届いた。

『最上さんのところに行ってきます。そのまま一緒にルーブルに向かうのでよろしくお願いします。』

これが彼の今日一日の始まり。
遅刻をしない男、きっと心配せずとも時間には現地に到着するのであろう。
蓮の仕事に対する姿勢は誰よりも知っている社は、その点では全く心配はしていなかった。
気になるのは例の件だ。
現場で会うのも待ちきれず、蓮はキョーコに返事を聞きに行ったのだろうか?
落ち着かない気持ちは分かるが、それはそれで少しせっかちだなあと社は一人クスリと笑う。
一刻も早く嬉しい返事を聞きたいのだろう。
しかし、いきなり現れた蓮にキョーコは大きく動揺するに違いない。
ジタバタする絵を想像すると、なんだか可愛いんだか面白いんだか。
とりあえず、キョーコの為にも蓮が手を抜くことを祈っておこう。
そんな事を考えながら、社は一足先に現場に着いた。

集合時間10分前に二人は現場に揃って現れたのだが、実際に思っていたものと少し様子が違っていた。
先輩後輩というには近すぎるが、恋人同士という言葉も微妙にしっくりこない。
新しい関係が始まったのなら見える初々しい独特の空気が、二人の間には何故か存在しないのだ。
形容するのは難しいのだが、明確なのは蓮が自分の中の気持ちを隠そうともせずにキョーコの近くにいる事。
彼女と一緒にいるのがどんなに素敵な事かを、周りに見せつけているかの様な勢いだ。

――俺がもし今の蓮にキャッチフレーズをつけるなら 『え!?こんなにイキイキとした蓮は見た事が無い!』 これだ!

社が冗談ではなく、本気でそう思うぐらいに蓮はこの状況を楽しんでいる。
一方キョーコは、これまでは素晴らしい天然スキルで見事にツルンとかわしていたのに、今では蓮のスイートな攻撃を真正面からガッツリ受け止めながら、それでもって近寄ったら投げ飛ばさんばかりに全力で逃げようとしている。
ほら、今だって蓮は必死にもがいているキョーコの事を、その長い腕で笑いながら捕まえてギューギュー抱きしめてるのだ。
ただ、逃げようとしているくせに嫌がっている訳ではない。
よって、かわいそうな事に傍から見ると、それは楽しそうな子犬のじゃれあいのようなもの。
ここにいる番組制作スタッフ全員が、敦賀蓮にしては些か子供っぽいその行動に思わず微笑ましくなるのか、目を細めてうんうんと笑顔で頷いている。

――だが、蓮よ!俺の目は誤魔化されないぞ!?

微笑ましいじゃれあいの中に巧妙に隠された、不埒な手の動き。
その一瞬でキョーコに男の自分を意識させる。

――あ、キョーコちゃん涙目で睨んでる……

撮影の合間に繰り広げられる甘い攻防。
糖分過多は胃に悪い。
とりあえず疑問のひとつを解消しなくてはと、社は思い切って二人に訊ねてみた。

「お前たち……つきあってるのか?」
「いいえ?まだですけど?」
「違います」

あっさり答えた二人にやや拍子抜けしそうになるが、結局は自分が思っていた通り「まだ」だった。
この事を繰り返すこと数回。
話はルーベンスの間でのつぶやきにつながるのだ。



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ルーブルでの撮影は順調に進んだ。
休館日を利用しての撮影という事もあり、通常よりも広く感じる中、撮影クルーだけが塊で動く。
次のシーンからは衣装とメイクを変えて、この美術館により似合うイメージの世界を作り上げていく。
衣装の色味は場の雰囲気にあったシックなもので、蓮はその色香を引き立てる細みでノーブルなスーツ。
キョーコの方は中世ヨーロッパの匂いを感じさせるレースを多めに使用した衣装。
清楚な中にもコケティッシュさを秘めていて、それが彼女の女性としての魅力を余すところ無く伝えてくる。
二人の仕上がりは息を呑むほどに美しかった。
この中の絵画の一枚からそっと抜け出してきたかのような、現実離れしたクラシカルな雰囲気さえ漂わせている。
動きについて、制作サイドからの指示は特に無い。
自由に動いてこの美術館の空気感を二人に伝えてもらうという事で、蓮とキョーコは巨匠たちの作品を見ながらゆっくりと歩く。
適度に空いた距離感、それが近づくと蓮は耳元で何やら密やかに話す。
二人の視線はあくまで絵画に向かったままなのだが、キョーコのピンと張り詰めた見えない緊張の糸に声が触れると、時折背徳的な匂いが微かに漏れる。
穢れ無きな乙女を誘惑するかの様なワンシーン……。
そんな二人をレンズに収めれば、そこにまた新しい芸術の一枚が完成する事に制作サイドは満足した。

なお、二人の声は周りの誰にも聞こえてない。

現在撮影している部分は、実際にはナレーションを入れるという事で音声は不要だからだ。
蓮はその事を幸いと、キョーコとの密やかな会話を楽んだ。
絵画に美しい女性がいれば「君の方がきれいだよ」と言い、瑞々しい果実があれば「君の方がずっと美味しそうだ」と耳元で囁き、裸体が美しい女性の絵画の前では「いつか俺にだけ見せて?」と、冗談っぽさの中に艶色をのせて言う。
これが場の雰囲気に合わせて言うものだから、効果的な演出のひとつになってしまうのだ。
羞恥を表に出さないように耐えるキョーコの姿さえも。

カットの声がかかると、キョーコは堰を切ったかの様に蓮に抗議した。

「し、信じられません!み、み、耳元であなたはなんという破廉恥な事を!」

蓮はしれっとした顔で悪びれる様子も無く答える。

「最上さん、仕事中にそんなに動揺しちゃ駄目じゃないか?でも、お陰でいい絵だったでしょ?ね?」

最後の部分はなぜか制作サイドに問いかけているのだが、親指を突き出した満足そうなサインをこちらにおくってくる。(社を除く)

「ほら?良かったって」
「あ、あれは、世間ではセクハラっていうんです!演出の為だっていっても、女の子にあんな事言っちゃ駄目なんですからね!?」
「だったら、演出じゃなかったら大丈夫だよね?」
「そう!演出じゃなかったらいいですけ……ええええ????今、なんと?」
「いや、だってあれ、本音だし?」
「し、仕事中なのに?あなた、プロ意識が高い事で有名な『敦賀蓮』の自覚があるんですか!?」
「うん。俺に思わずそんな事を言わせるなんて、最上さんは凄いよね。本番中なのに思わず君の魅力に引きずられて本音が出ちゃった。参ったなあ。ああ、そんなに怒らないの。いや、怒ってる顔も可愛いから俺は良いんだけどね。でも、約束は守ったでしょ?」

確かに手は握っていないし、視姦されてもいない。
それでもキョーコは一言文句を言ってやろうかと思ったのだけど、蓮の姿を真正面から捉えた瞬間、頬を少し染めて言うのをやめてしまった。

「参ったはむしろこっちのセリフですよ……」
「ありがとう」

まったく魅力というのは罪だ。



h_10.jpg

時間は経過し、ここでの撮影もいよいよ大詰め。
途中で聞いたのだが、蓮はこの後アールマンディ関係の仕事があるらしい。
よって、本日一緒にいることが出来る時間もあとわずか。
ドゥノン翼のモナリザ、カナの婚礼、ナポレオンの戴冠式を順番に観て、最後にダリュの階段踊り場にあるサモトラケのニケに辿り着く。
カットの声は既にかかっていて、次の場所を移動するために慌しく機材の片づけをしている。
蓮とキョーコはそんな中、ひっそりと二人で像を眺めていた。

「綺麗ですね」
「うん。彼女は君に似ているね」
「不完全なところが……ですか?」

サモトラケのニケには翼がある。
だが、見つかった時は胴体部分だけで翼は無かったらしい。
壊れた欠片を拾い集めて現在の形を取り戻したが、この像の腕と頭部はいまだ失ったままだ。
蓮はキョーコに対して小さく首を横に振って言う。

「違うよ。このニケは勝利の女神だ。力強くて美しくて、俺には君の背中にも翼が見える」
「勝利……ですか?」
「うん。俺にとっての勝利の女神は君だからね」
「でも、あの……それなら敦賀さんの背中にも、きっと私よりももっと立派な翼がありますよ?」

キョーコのその言葉に少し目を見開いて問う。

「じゃあ、飛べるかな?」
「はい。誰よりも遠くまで……」

真っ直ぐな曇りの無い眼差しでそう言われた蓮は、思わず眩しそうに愛しい娘を見てそっと微笑んだ。

「不完全でも君は綺麗だよ」

そして「足りないものは俺があげる。それでも不安なら一緒に探しにいけばいい」と言葉を続け、頭をポンポンと柔らかく叩いた後に次の仕事に向かった。

「最上さん、また明日」

キョーコは胸がきゅーっと苦しくなり、鼻の奥がツンとして泣きそうになるのをなんとか堪える。
きっとこの先何度も繰り返す痛みだと思ったけれど、今のキョーコにはそれさえも愛おしいと感じた。


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今回は時間がかかった~!次はホテルに戻ります。
ちなみに画像は『アポロンギャラリー』というゴージャスな部屋です。

コメント

>吟千代さん

拍手コメントありがとうございます!
敦賀さん、えらい突き抜けてますよねw
書いていると、自分が思っているよりも暴走して困りモノですw
浮かれすぎです。本当にちゃんと仕事は出来ているのでしょうか?
実に心配なところでございます。

ところで吟千代さんのコメントの『帰還の際はキョコを乗せてきて』という箇所と『ツッコミ』の部分だけで、
さにーの脳内は立派に18禁な妄想が完成してしまいました。
乗せて突っ込むだなんてなんという破廉恥なw(←この人きっと変態ですw)

写真も楽しんで頂きありがとうで~す^^
次の更新も早く出来るようにがんばりますね。